『ねばならない』の効用

「ベートーヴェンはこのように弾かれなければならない」「装飾音はこのように弾かれなければならない」「指は伸ばした状態にしておかなければならない」

などなど、ピアノ、ことにクラシック音楽をピアノで演奏する場合、次から次へとねばならないが襲い掛かってきます。

正しいショパンは存在するのか?で検討したことから考えますと、これらの『ねばならない』もまた、立場や価値観によって変動するものであり、絶対にそうであらねばならないということはない、ということになります。

私は一時期、ねばならない地獄とでもいうような状態に陥り、自分は一体何のためにピアノを弾いているのかということが全くわからなくなったことがありました。

当時を振り返ってみますと、とにかくコンクールで賞を取るために必死になっていたという背景がありましたから、おそらく、無意識のうちに、審査員のためにピアノを弾くという、ピアノの演奏が本来求められるものとは全く正反対の方向に陥っていたのではないかと思います。

落ち着いて考えてみますと、審査員はそれぞれ考え方も感じ方も異なりますから、審査員全員の『ねばならない』を満たすような演奏など存在するはずがないのですが、当時はそのようなことを考える余裕もなく、ただひたすら審査員全員の『ねばならない』を満たすような不可能に向かって、それがいかに無意味なことかということがわかるまで突っ走りました。

『ねばならない』と出てきた場合には、『できた方が良い』とか『できるに越したことは無い』と言い換えて考えれば良かったんだ、『ねばならない』を完璧にこなす必要はなかったんだ、ということに、なぜもっと早く気が付かなかったのだろうと、毎度のことながら、自分の頭の悪さに嫌気がさしてきます。

このように、私をさんざん苦しめてきた「ねばならない」ですが、見方を変えますと、この『ねばならない』には大変素晴らしいというか便利な効用もあることがわかってきました。

『ねばならない』ということは、その『ねばならない』を通してできあがる何かしら『型』のようなものが存在しているわけで、本来は、この『型』を実現するための『ねばならない』なのではないかと、私は考えました。

この『型』というのは何かということを考えてみますと、それはこれまでピアノでクラシック音楽を演奏することに携わってきた人達が、どのように弾けば聴衆を満足させることができる演奏ができるのか、どのように弾けば美しい音楽を実現させることができるのか、ということについて考えに考えた結果、このようにすればこのようになるというような、公式のようなものとして確立されたものではないかと私は思います。

ということは、自分で一からそのような公式を作り上げることをしなくても、まずは『型』を習得して、その『型』の原理を自分なりに咀嚼することによって、自分なりのそのような公式を作ることができるのではないでしょうか。

もっと極論を言えば、『型』の原理を理解しなくても、『型』を1から10まできっちり守ることによって、音楽的才能や音に対する美意識に乏しくても、美しい音楽を演奏することが可能かもしれない、ということになります。

これを反対に利用して、『型』を習得することにより、音楽的才能や音に対する美意識を高めるということも可能ではないか、と思います。

これは、すごいことなのではないかと思います。

私は常々思うのですが、音楽の様々なジャンルの中で、実はクラシックというのは易しい部類に入るのではないかと。

なぜなら、クラシックには上記のような『型』が多数存在しているからです。

『型』を守るということを行うだけでも美しい音楽を演奏することが可能であるという意味で、このように思います。

それに比べますと、ジャズやポピュラーというのは、『型』の数は圧倒的に少ない、というよりは、自分なりの『型』を作り出すことができなければ、聴衆を惹きつけることさえ難しい、というように、演奏の大部分が演奏者個人個人の資質にかかっているのがこれらのジャンルではないかと思います。

真の音楽的感動というのはジャンルを超えていますから、クラシックでもジャズでもポピュラーでも、最終的には演奏者個人の資質にかかっているわけですが、鑑賞ではなく自分が演奏する場合、最も手軽なのは『型』が出来上がっているクラシックなのではないかと思います。

入口が難しそうに見える方が実は簡単で、入口が簡単そうに見える方が実は難しい、何かそのようなものを感じます。

このように考えてみますと、『ねばならない』の裏側には、こんな素晴らしい力が隠されていたということが見えてきます。

もっと早く、このことに気が付いていれば、占い師から「あんた、しなくていい苦労をしてきたねえ」なんてことは言われずに済んだのかもしれません。