正しいショパンは存在するのか?

正しいバッハ、正しいショパン、正しい装飾法、正しいピアノ奏法、正しい○○○、・・・

ピアノの世界には、正しい○○○が多数存在しています。

私は学生時代「正しいショパンを演奏するためには、正しい楽譜を使用しなければならない。」という類の話を鵜呑みにし、正しいショパンとか正しい楽譜というものが、本当に存在するものと信じて疑わなかった時期があり、これが原因で議論が論争になり、最後に中傷合戦にまで発展したという、大変苦い思い出があります。

落ち着いて考えてみれば、そのようなものがこの世の中に存在するわけがないのですが、自分のピアノ演奏技術に対する極度のコンプレックスも手伝い、そのような自分の弱さを隠す手段としては、この手の理論は自分にとって最高なもののように当時は思えたのでしょう、完全に洗脳されていました。

そもそも、私は何の目的でこのような理論に興味を持つようになったのか。

最初から自分の弱さを隠す手段としていたわけではなく、初めは自分のピアノ演奏技術を伸ばすことを目的として近づいていったのではないかと思います。

ところが、ピアノ演奏技術というのは1週間やそこらで劇的に変化することはあまりありませんが、情報というのは、摂取しようと思えば、1週間それに集中すると、相当な量を摂取することが可能です。

すると、私の場合は、自分自身のピアノ演奏技術はちっとも進歩などしていないのですが、何となく上手くなった、というよりも自分が偉くなったような気持ちになりました。

こうして、私は当初の目的を見失い、これらの得た情報で理論武装を行うことによって、自分の弱さを隠し、コンプレックスから目をそらすということをするようになったのではないか、と疑っています。

私は、このような麻薬的効果(?)を体験したわけですが、この正しい○○○について、今、改めて考えてみますと、正しいかどうかということは、少なくとも私にとっては何の関係も無かった、ということがわかりました。

なぜなら、私は学者ではないからです。

私にとってこれらの正しい○○○は、先に述べたように、自分のピアノ演奏技術を伸ばすための手段でしかありません。

どのようにしたらもっと聴いていて快いと思わせるような音を出すことができるようになるだろう、どのようにしたらもっと聴衆が想像力を豊かに膨らませることができるショパンを弾くことができるようになるだろう、という自分の欲求を解決するための鍵がこれらの正しい○○○の中に潜んでいるかもしれない、という意味で、かつて散々苦い思いをさせられはしたものの、私は依然として、これらの正しい○○○に興味があります。

しかし、私の目的は、聴いていて快いと思わせるような音であり、聴衆が想像力を豊かに膨らませることができるショパンなのであって、極論すれば、これらが達成されるのであれば、学者の立場から見て間違った○○○であっても、私にとっては全く問題がありません。

ショパンを例に考えてみます。

今日ショパンを弾くならこれをと推奨されている原典版が存在していない時代に録音されたショパンの演奏の中には、素晴らしいものがたくさんあるように私は思います。

しかし、今日正しいとされているショパン演奏のルールから考えるならば、原典版が存在していない時代に録音されたという時点で、これらの演奏は全て間違いということになります。

それでは、これらの演奏が今日正しいとされているショパン演奏のルールに則っていないというただそれだけの理由で、突然、想像力をかきたてる力を失うということがあるのでしょうか。

先に述べたように、正しい○○○に完全に洗脳されていた状態の私であれば、もしかしたら、今日正しいとされているショパン演奏のルールに則っていないというただそれだけの理由で、これらの演奏に対して突如、魅力を感じなくなったかもしれない、ということは十分に想像されます。

しかし、これは、私の側の価値観が変わったことによるものであり、演奏そのものは録音ですから、変化するということはありません。

このように考えてみますと、少なくとも、演奏する立場の人間にとっては、その理論が学者の世界で正しいのかどうかということは、あまり関係がないのではないかと思います。

例外として、プロの演奏家が自身の演奏の正当性を主張するプレゼンテーションとして、正しい○○○という表現を行うということはあるのではないかということです。

いずれにしても、正しい○○○というのはある立場から見た場合の話であるということが学生時代にわかっていれば、私はあんな不毛な言い争いなどしなくて済んだのにと思いました。

正しいショパンも間違ったショパンも存在しない、あるのは心地よいショパン、感動的なショパン、ただそれだけだ。