ピアノ入門以前 第10号 アナリーゼについて

2009/11/01

今回は、アナリーゼについてのお話です。

まず、次の文章を、声を出してお読みください。

  

吾輩は猫である名前はまだ無い

  

いかがでしょう、読めましたでしょうか。

読めたというあなた!

あなたはたった今、アナリーゼを行ったのです。

これは夏目漱石の有名な小説『吾輩は猫である』の冒頭に出てくる有名な文章ですが、意図的に句読点を消しました。

これを声に出して読まれた方の多くは、次のように区切ってお読みになられたのではないかと思います。

  

吾輩は猫である/名前はまだ無い

  

なぜ、「ある」と「名前」の間で区切ったのでしょうか。

それは、ここに文章の区切りがあるということがわかるからではないでしょうか。

例えば、次のように区切ったとします。

  

吾輩は猫であ/る名前はま/だ無い

  

これでは、文章が意味を成さなくなる、つまり文章として認められなくなります。

他にも、次のように区切ることも可能です。

  

吾/輩は猫/であ/る名/前はま/だ無/い

  

このように、どのようにでも区切ることが可能でありながら、「ある」と「名前」の間で区切ってしまう、つまり、どこで区切れば意味を成す文章として読むことができるのかということを分析しているからこそ句読点が無くても「ある」と「名前」の間で区切るということがわかります。

ちなみに、アナリーゼというのはドイツ語のAnalyseという言葉から来ているそうで、文字通り「分析」という意味です。

クラシック音楽では、アナリーゼという聞き慣れない単語を使用するため、専門家にしかわからない何か特殊なことのように思われがちですが、上記の例からお分かりいただけるように、本来、楽譜を通して西洋音楽の演奏を試みようとする場合には、まず最初に理解する必要がある事柄です。

ところが、これまでに行われてきた日本のピアノ教育においては、楽器の取り扱いに習熟すれば、まるでそれ以外のものは自然についてくるかのごとく、ひたすら楽器の取り扱いの習熟に時間をかけて、その先にある「音楽」というものに対する緻密な考察をおろそかにしてきたのではないか、ということを私は強く感じます。

音楽を鑑賞の対象として、鑑賞の対象である音楽を表出するために楽器の取り扱いに習熟するというのではなく、楽器の取り扱いそのものが鑑賞の対象になってきたのではないか、ということを思います。

楽器の取り扱いそのものは、それはそれで十分に鑑賞の対象となり得るものです。

しかし、それと音楽鑑賞とがイコールになるかどうかということになると、私はそれは違うのではないかということを思います。

これには、「何をもって音楽とするのか」という壮大な問いが着いてまわるため、美学者でもない私には何ら論じる手段がありませんが、ステージに立って演奏をしてきた人間の視点から考えてみますと、次のようなことが言えるのではないでしょうか。

ここで、また、次の文章を声を出して読んでみてください。

  

「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」

  

これは、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の中の、大変有名な台詞です。

この言葉そのものを声を出して読むことは造作の無いことです。

しかし、これを芝居の台詞として読み上げるとなった場合にはいかがでしょうか。

声の調子、身振り手振りも含めて、愛してはならない人を愛してしまったジュリエットの苦悩を、観客をしらけさせること無く表現することは、大変難しいことなのではないでしょうか。

音楽は楽器(人間の声も含めた音源)なしには成立しませんから、その意味においては楽器の取り扱いに習熟するということも、十分に鑑賞の対象となりうるのではないかと思います。

しかし、文章を声を出して読み上げることと、それを台詞として表現することとが異なるように、楽器の取り扱いに習熟することと、表現ができるということが必ずしもイコールではないということが、上記ロミオとジュリエットの台詞の例から見えてくるように思います。

そして、アナリーゼとは、楽譜という紙に記された記号の集合の中から、冒頭の吾輩は猫であるの例のように、どこで区切れば意味を成す文章になるのかということを見つけ出し、ロミオとジュリエットの台詞のように、それをどのように読み上げれば表現につながるのか、ということを見つけ出す作業であると言うことができるのではないかと思います。

昨今の日本のピアノ教育において、アナリーゼが注目されるようになってきたことは喜ばしい限りですが、私の懸念は、今度は、アナリーゼそのものが鑑賞の対象になりつつあるのではないか、ということです。

冒頭の例で、私達は文章を読んでいるときに、無意識のうちにアナリーゼを行っているというお話をしましたが、趣味でピアノをお弾きになる方が最初に目指すべきアナリーゼはこのようなタイプのものではないかと思います。

昨今のアナリーゼ解説書を拝読しますと、その多くが専門的になりすぎて、そのアナリーゼ解説書のためのアナリーゼが必要ではないのか、という感覚に襲われます。

これが、私が今度はアナリーゼそのものが鑑賞の対象になりつつあるのではないかと懸念する理由です。

アナリーゼに傾倒し過ぎますと、今度は、響きそのものに対する自分自身の自然な感覚といいますか、直観といいますか、そのようなものが損なわれるのではないかということを思います。

アナリーゼが必要なことは明らかだと思いますが、その目的は何なのかということを見失わないようにしないと、何のためのアナリーゼなのかということがわからなくなる恐れがあるのではないでしょうか。

※「ピアノ入門以前」は、だいすピアノ教習所講師の かとうだいすけ が2009年6月から2011年5月まで、まぐまぐにて配信したメールマガジンです。2011年5月に廃刊しました。