ピアノ入門以前 第8号 音楽はわかるものなのか

2009/10/01

先週、近所の図書館で見つけた本から引用します。

「極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。」(小林秀雄著『真贋』世界文化社より)

今回のリサイタルのプログラムに、解説と称して私が書いた文章の要旨は、まさに、この小林秀雄の言葉そのものでした。

この文章が世に出た年が1957年とありますので、今から50年以上も前に、日本の知の巨人と称される文芸評論家によって、このようなことが文章化されていたということが何よりの驚きでした。

私が不勉強なだけだと言われてしまえばそれまでのことですが、小林秀雄のこの言葉とは反対に、私には、クラシック音楽の世界がどんどん解るとか解らないという方向に突き進んでいるように感じられます。

今回のリサイタルのプログラムに、解説と称して私が書いた文章から一部を引用します。

>空に浮かぶ雲を見て、何かの形を想像するのに難しい知識は必要なのだろう >か。
>星空の美しさに感動するためには、何か特別な勉強をしなければならないの
>だろうか。

わかるクラシック、クラシック音楽入門といったタイトルの本を書店で見かける度に、浮かんでくるのは、上記のような疑問です。

クラシック音楽には、知識欲を満たしてくれるという作用があることは、間違いの無いことだと思います。

しかし、それがクラシック音楽の全てであるかのような昨今の風潮に対して、私個人としては、素直に同意してよいものかどうか、判断に苦しむところです。

ある曲に対して、この曲は作曲者がこのような時期にこのような経緯で作曲した曲である、これこれこういう形式で出来ており、このような和声進行に特徴がある、というようなことを知っていたとします。

このような知識は、ある曲を聴く上で、想像力の膨らみをより豊かにする手助けになりますが、このような知識を持っているということが、そのままその曲がわかるということになるのでしょうか。

その曲の経緯に関する情報、その曲を分析(それも、たいていは作曲家自身による分析ではなく、あくまでも学者達、それも実際には演奏をしない、もしくは演奏によって聴衆に何らかの印象を与え、さらにはそれによって報酬を得るということを実践したことのない学者達によって作られた方法論に則った分析)した結果得られる断片的な情報、というように、情報となった時点で、すでにその曲そのものからは離れてしまっているのではないか、ということを私は感じるのです。

例えば、ここに加藤大須という人間がいるとして、この加藤大須は芸大コンプレックスであるとか、コンクールコンプレックスである、という情報があったとします。

これらは、加藤大須に関する断片的な情報に該当します。

では、これらの断片的な情報を得たとして、それで加藤大須という人間の全てが解ったことになるのでしょうか。

部分を見れば全体がわかる、などということがまことしやかに言われますが、それが事実であるならば、耐震偽装やリーマンショックのような問題は起こらないはずではないでしょうか。

断片的な情報は、あくまでも断片的な情報でしかなく、それをつなぎ合わせたとしても、つなぎ合わせる方法によって、どのような形にも変化をさせることが可能です。

ということは、加藤大須から断片的な情報を抽出し、それらの情報をつなぎ合わせることによって、様々な加藤大須像を作ることが可能になるのではないでしょうか。

例えば、芸大コンプレックス、コンクールコンプレックスを始め、音大に合格するまでに受けたコンクールの予選を通過したことが一度も無いとか(初めて予選を通過したのは大学3年くらいの時に受けた小規模なコンクールだったように記憶しています)、大学2年の時の試験では、某コース落第ギリギリの点数だったとか、大学院の入試は演奏の点数は最下位だったが学科試験の成績が良かったので合格できたとか、君はモーツァルトは一生弾けないと音大受験の時から世話になっていた先生から言われたとか、コンクールではずしまくったことがネット上の批評で書かれているとか、このような情報ばかりを並べていけば、絶対に習いたくないピアノの先生No.1を獲得すること間違いなしの加藤大須像が出来上がります。

反対に、地元で受けたコンクールは全て予選落ちだったにも関わらず、難関とされる音楽大学の某コースに現役で合格したとか、4年次に特待生奨学金を授与されたとか(これはウソみたいな本当の話で前年度は上記のように落第ギリギリだったのが、学年2位という点数でした)、これでピアノとはお別れしようと思って受けたコンクールでどういうわけか本選まで残って入選となった、というような情報のみを並べますと、偏差値40から有名大学に合格したというようなタイプの予備校の先生を彷彿とさせる雰囲気が生まれ、少なくとも絶対に習いたくないピアノの先生No.1を獲得するのは難しいであろう加藤大須像が出来上がります。

取り立ててドラマになるような体験など無い、ごく普通の加藤大須という人物でさえ、このように断片的な情報を操作することによって、全く印象が異なる人物像を作り出すことが可能となります。

耐震偽装やリーマンショックに至っては、何をかいわんやということになります。

そして、ここで私が申し上げたいことは、ある曲に関して、どんなに断片的な情報を数多く所有していたとしても、それによってその曲がわかるということにはならないのではないか、ということです。

ある曲に関する断片的な情報を数多く所有することによって、その曲に対する『像』つまりイメージが出来上がるわけですが、加藤大須像が加藤大須そのものではないように、ある曲に関する断片的な情報を集めて作った『像』が、その曲そのものであるということは言えないのではないか、と思います。

私が感じることは、どんなにたくさんの断片的な情報を集めて『像』を作ったとしても、『像』を作った時点ですでに、その『像』を作った人間の主観が入るため、どこまで行っても、その『像』はその曲そのものではなく、その『像』を作った人間の創作ということになるのではないか、ということです。

これを、その曲がわかる、と称しているのだとしたら、私は、これはその曲がわかるとは言えないのではないか、ということを思います。

それは、曲そのものを聴いているのではなく、その曲を基にして自分なりに作り上げた『像』を聴いているのではないか、ということを思うからです。

曲そのものを聴く、ということと、曲を基にして作り上げた『像』を聴く、ということ。

この2つの行為の間には、全く似て非なるものがあるのではないでしょうか。

とは言っても、では、そのような『像』を作らずに聴くことはできるのか、曲そのものをそのものとして聴くことはできるのか、と問われれば、悔しいですが、不勉強な私には、わかりませんと答えるしかありません。

この辺りは、これからの私の課題です。

ただ、小林秀雄の言葉を手がかりに、クラシック音楽について考えてみますと、知識が無ければクラシック音楽は楽しむことができないということにはならないのではないか、と思います。

知識がないからダメということではなく、知識のある人はあるなりに、知識のない人はないなりに、それぞれの楽しみ方でクラシック音楽に接していけば、それで良いのではないでしょうか。

なお、私は『像』を作り上げる聴き方を否定しているわけではありません。

むしろ、『像』を作り上げることこそ、クラシック音楽の醍醐味なのではないかと思います。

問題は、このような『像』を作る前に、クラシック音楽という言葉に対する『像』を、音楽そのものによってではなく、言葉や知識といったものによって作り上げてしまい、その『像』を通してしかクラシック音楽というものを聴く、というより見ることができなくなってしまうという点と、クラシック音楽の世界ではそのような『像』が作られやすいという点にあるのではないか、ということを感じます。

最後に、小林秀雄の有名な言葉を引用します。

「美しい花がある、花の美しさというものはない」

※「ピアノ入門以前」は、だいすピアノ教習所講師の かとうだいすけ が2009年6月から2011年5月まで、まぐまぐにて配信したメールマガジンです。2011年5月に廃刊しました。