CDなどの音源を聴くのはいけないことなのか?

新しい曲の譜読みをする際に、CDなどの音源を聴くことについては賛否両論ありますが、これについて詳しく考えてみたいと思います。

私は、せっかく文明の利器が存在しているわけですから、これを使わない手はないのではないかと思います。

こういうものに頼ってはいけないという意見もありますが、これは「頼る」ということに問題があるのであって、このような文明の利器を使うことそのものに問題があるわけではないのではないかと思います。

つまり、文明の利器を使うかどうかということではなく、使う側の人間の心構えの問題ではないかと、私は思います。

録音という技術が存在しなかった時代には、楽譜に書かれた音符を鍵盤上でたどたどしく弾きながら確認をするか、もしくはレッスンの時に先生に弾いてもらう、演奏会で聴くという限られた方法でしか確認することができなかったであろうその作品の全体像を、手軽に把握することができるという意味では、録音という技術が存在している今日に生きている私たちが、この恩恵を享受しないのは、この時代に生きている意味が無いのではないかと、私は思います。

この文明の利器を禁止する側の意見としては、演奏が単なる物まねになる、というものがあります。

ここで、価値観の確認が必要になります。

物まねでも何でもいい、とにかくその曲が弾ければそれでいい、ということであれば、この時点でこの意見そのものが無効となります。

どうしても禁止の方向に持ち込みたいのであれば、なぜ単なる物まねになってしまってはいけないのか、ということを明確に説明する必要があります。

プロのピアニストやピアノ演奏を芸術として捉えている人の場合であれば、単なる物まねになってしまってはいけない理由は明確です。

ですから、こういったものを目指す人に対して、安易にCDなどの音源の物まね(聴くことではなく)を戒めることに関しては、特に問題はないのではないかと思います。

しかし、アマチュアとしてちょっとピアノを楽しむことを考えている人の場合、単なる物まねになってしまってはいけない、ということに対する明確な理由がありません。

ですから、このような価値観をお持ちの方の場合には、CDなどの音源を聴くのはいけないという意見そのものが、何の意味もありません。

ちなみに、物まねは絶対にいけないのか、と考えてみますと、私は必ずしもそうとは言い切れないのではないかという気がしています。

芸の世界において、師匠の芸を弟子が受け継ぐというのは、物まねそのものではないでしょうか。

ただし、この物まねが単なる物まねと異なるのは、その芸の裏側にある原理(芸として成り立っているところの仕組み)までそっくりそのまま物まねをしているという点ではないかと思います。

ですから、CDによる物まねも、そのピアニストが、なぜそこでそのようなルバートをかけたのか、なぜそこでそのような音色の変化をつけたのか、ということを原理の側から理解した上で物まねをするのであれば、私は何も問題がないのではないかと思います。

表面上だけではなく、真似るなら中身まで全て真似るということであれば、それはもう物まねではなく、その人の芸になるのではないか、と私は考えています。

次に、文明の利器を禁止する側の意見として登場してくるのが、楽譜を読まなくなる、というものです。

私が楽譜を読むことについて思うのは、楽譜というのは、解読方法がわかればわかるほど読むのがおもしろくなるという意味で、上級者向けの存在なのかもしれない、ということです。

丁度、数学が大好きな人たちが、私のような数学をやりたくないという理由で文系を選ぶような人間には怪しげな呪文のようにしか見えない数式の羅列を見て喜んでいるのに似ているのではないか、という気がします。

このような楽譜ですから、耳で聴いて覚えて済むのならその方が良い、という意見が出てくるのは仕方の無いことではないかと思います。

最終的には、この問題も先ほどの物まね同様、価値観によって大きく分かれると思います。

なぜ楽譜通りに弾かなければいけないのか、という問題に対する絶対的かつ明確な説明が存在しない限り、これを理由に文明の利器を禁止するというのは無理があると思います。

大筋でCDと同じように弾けているのであれば、楽譜通りに弾けなくても十分満足である、という価値観を持っている演奏者に対して、絶対的かつ明確な理由が存在しないにもかかわらず楽譜通りでなければいけないと言い張ったところで、何の意味もありません。

ちなみに、プロのピアニストやピアノ演奏を芸術として捉えている人の場合は、CDのみで済ませるということは、大変難しいと思います。

プロのピアニストやピアノ演奏を芸術として捉えている人に求められる、もしくはそれらの人が求めているのは、楽譜を解読し、それをもとに自分自身の想像力を使って音楽を再構築するという作業であり、これをもし、耳から音を聴き、それを頭の中で様々な角度から眺め、検討した上で音楽として再構築をすることができるのだとしたら、私はそのような人こそ現代のモーツァルトではないかと思います。

しかし、CDから流れてくる演奏は、ある作曲家が楽譜という紙面に書き付けた音楽作品の設計図を、第3者であるピアニストが自分自身の想像力を使って再構築したものであり、どんなに楽譜に忠実に演奏を行ったとしても、それはそのピアニストが考えるところの楽譜に忠実な演奏としかなり得ません。

このように考えてみますと、CDから流れてくる演奏と、本来の楽譜とが完全なイコールで結ばれるということは無いのではないかと思います。

仮に、CDから流れてくる演奏をもとにして、本来の楽譜をイメージすることができるという能力があったとした場合、そのためには本来の楽譜とCDから流れてくる演奏との相関関係を把握している必要がありますから、そのような能力があるという時点で、楽譜を読むことができるということになりますので、それなら最初から楽譜を読むのが一番ではないかということになります。

従って、CDから流れてくる演奏を聴き覚えて演奏するということは、作曲家の作品をそのまま演奏するということではなく、その作品を演奏しているピアニストが解釈し再現したものを演奏しているということになるのではないかと思います。

今日の、プロのピアニストやピアノ演奏を芸術として捉えている人に求められているルールの一つが原典版主義であることを考えてみますと、このような方向を目指している場合、楽譜が読めない、楽譜の解読方法がわからないというのは、大きなハンディを背負うことになるのではないかと思います。

すぐに思い浮かぶ、文明の利器を禁止する側の代表的な意見について検討してみましたが、このように考えてみますと、いずれの意見も決定的な理由にはならないような気がしてきます。

つまり、文明の利器を禁止する意見というのは、ある特定の価値観に基づいた場合、もしくはある特定のルールが適用される世界において、という前提があってという場合であって、ピアノを弾く全ての人に対して適用されるものではない、ということではないかと思います。

この問題に限らず、ピアノに関する「○○はいけない」とか「○○が正しい」といった意見というのは、詳細に検討してみますと、そのほとんどが、ある特定の価値観に基づいた場合、もしくはある特定のルールが適用される世界において、という前提のもとでの話であり、上記のような「物まねでも何でもいい、その曲が弾ければそれでいい」という方や「大筋でCDと同じように弾けているのであれば、楽譜通りに弾けなくても十分満足である」という価値観を持ってピアノに向かっている方には関係のない話ではないか、という気がします。

「○○はいけない」とか「○○が正しい」は、本来はその前提となる条件も併せて発言されたものなのかもしれませんが、それが時間が経つにつれて前提が抜け落ち、格言めいた部分だけが一人歩きしているような例はたくさんあると思います。

このような意味で、今日のように情報が溢れかえっている状況下では、たとえアマチュアであっても、自分の価値観がどのようなものかを自分で明確に把握し、ある意見が自分の価値観に沿ったものかどうかということを自分で吟味し取捨選択を行う必要があるのかもしれません。