入口と出口

基礎ではなくてfundamentalという文章の中で、私は「私が戻っていた原点には、私がこのように弾きたいと思うような弾き方を実現するために必要なfundamentalが欠落していたと言った方が良いのかもしれません。」ということを書きましたが、このことについてもう少し詳しく考えてみます。

本来であれば、入門レベル・初級レベルで扱われる基礎の中には、ピアノを弾くために必要なfundamentalのうち、ピアノを弾くために必要とされる基本的動作の原理の部分については、その全てが網羅されている必要があるのではないかと思います。

これは、その入門レベル・初級レベルを通過した人が、ピアノを進めていく際に、多少の修正はあったとしても抜本的な改善などを行う必要も無く、そのまま中級・上級へと進んでいくことができるような、そのようなものです。

そして、これが入門レベル・初級レベルで網羅されているのであれば、ピアノを弾くために必要とされる基本的動作の原理の部分についてはそこで十分に身に付いているはずですから、そこから先は、それをいかに発展させていくか、という問題になります。

このようなモデルでピアノが進んでいけば、成長速度による個人差はあるかもしれませんが、遅かれ早かれ自分が弾きたいと思うような曲を自分が弾きたいと思うような弾き方で、自分自身が満足することができる演奏が可能になるのではないかと思います。

実際に、多くの方が漠然とピアノ教室やレッスンに対して抱いているイメージもこのようなモデルなのではないかと考えられます。

ところが、現実にこのような理想的なモデルでピアノが進むのかというと、そうは問屋が卸さないのが実情ではないだろうか、というのが私の感じるところです。

それは、その基礎がどこまで弾けるようになることを想定した基礎なのか、ということが明確にされていないところから起こる問題なのではないだろうか、というのが私の考えです。

入門レベル、初級レベルというのは、単に、初心者に対して易しければ、わかりやすければそれで良いのかどうなのかという点について、私はもう少し検討が必要なのではないかと考えています。

こういったものは、本来、最終的にこのような形になる、ということを想定し、そこから逆算して考える必要があるのではないか、というのが私の考えです。

入口が問題なのではなく、それが最終的にどのような出口につながっているのか、ということの方が重要なのではないかと、私は冒頭の文章のような体験をしてみて、強く感じました。

入口の入りやすさ、初心者に対するわかりやすさが考慮される必要があるのは当然ですが、それは、あくまでも出口を見据えた上での入りやすさ、わかりやすさであって、出口を見据えず入りやすさ、わかりやすさのみを考えて作られた入口というのは、どこに出るのかわからないという点で、少なくとも私は恐ろしくて入ることはできません。

ところが、ニーズの多様化、そして、今日あらゆる分野で主流となっている「わかりやすく・簡単に・すぐに・手軽に」という潮流によって、どの入口がどの出口につながっているのかということが、大変わかりにくくなってしまっているのではないのか、ということを思います。

ピアノを弾くということがちょっと体験できれば良いという人、エリーゼのためにを弾けるようになったらもうそれで十分という人、革命のエチュードを弾きたいという人、コンクールで賞を取りたいという人、という具合に、ピアノに対するニーズは人それぞれ、実に様々です。

このこと自体には、私は何ら問題はないと思います。

問題は、これらのニーズに合った入口にきちんと入ることができるのかどうか、ということではないかと思います。

ピアノを弾くために必要なfundamentalの習得というものは、本来、大変時間と手間がかかるものではないか、というのが私の実感です。

それは、ピアノという道具を自由に使いこなすために必要な指などの体の動かし方、楽譜の読み方とその再現方法など、新しい道具と新しい言語を一度に学ぶようなものだからです。

革命のエチュードを弾きたいという人や、コンクールで賞を取りたいという人の場合は、時間と手間がかかっても、これらを十分に習得する必要があるのではないかと思いますが、ピアノを弾くということがちょっと体験できれば良いという人、エリーゼのためにを弾けるようになったらもうそれで十分という人の場合、fundamentalの中から、わかりやすい部分、簡単にできる部分、すぐにできる部分、手軽にできる部分のみを取り上げるということも必要になってくるのではないかと思います。

このように考えてみますと、ピアノを弾くということがちょっと体験できれば良いという人に対して、コンクールで賞を取りたいという人と同じ内容の入門・初級レベルのレッスンを行うことは、ピアノに対する大変なマイナスイメージを植えつける原因になりかねないことは、想像に難しくありません。

また、コンクールで賞を取りたいという人に対して、エリーゼのためにを弾けるようになったらもうそれで十分という人と同じ内容の入門・初級レベルのレッスンを行うということは、途中で行き詰る原因になりかねないということも、想像に難しくありません。

このように、入口と出口がきちんとつながっているかどうか、ということは、途中で気が付くことではなく、入る段階で明確にしておく必要があることなのではないか、ということを私は思いました。

私の場合、このようなことを何も考えずにピアノを進めてきた結果、ピアノを弾くために必要とされる基本的動作の原理の部分について抜本的な改革をせざるを得ない状況に追い込まれたのではないかと、痛切に感じます。