音を聴く、と、絶対音感

ピアノ奏法の本や高名なピアニストがピアノ学習者に向けた発言の中に「自分の出している音をよく聴きましょう」というものがあります。

音を聴く。

私は自分では自分の出している音を聴いているつもりでしたが「自分の音が聴けていない!」とよく指摘されました。

「音を聴くって何だろう?ドレミファソラシドがわかって、リズムがわかるだけじゃダメなのかなあ」と悩みましたが、ドレミファソラシドがわかって、リズムがわかるだけではダメだったのです。

私たちが日常、誰かと直接会って言葉を交わす際には、言語によるコミュニケーションと非言語によるコミュニケーションが一体となった形でコミュニケーションが行われます。

「ありがとう」という言葉を例に考えて見ます。

この「ありがとう」を、笑顔で明るい声色で言うのと、相手をさげすむような目で見て暗い声色で言うのとでは、全く意味が異なります。

字面だけを見ればどちらも「ありがとう」と言っているのですが、そこに顔の表情や声色などが加わることによって、私たちが本来考えているような意味での「ありがとう」になれば、私たちが本来考えているような意味とは全く違う意味での「ありがとう」にもなります。

このように考えてみますと、実際の会話におけるある言葉の意味というのは、その言葉が持っている字面よりも、それに付随する非言語コミュニケーションの部分によって決定されているのではないか、という気がしてきます。

さて、これをピアノに置き換えてみますと、ドレミファソラシドやリズム(この場合は数値的な意味での音の長さと言い換えた方が良いかもしれません)というのは字面に相当するのではないかと、私は考えています。

私が自分では聴いているつもりだったところの音というのは、この字面の部分だったのではないかと思います。

そして、音楽にも、このような字面に付随した非言語コミュニケーションに相当するような部分があるように私は思います。

だからこそ、同じ曲を全く同じ楽譜を使用して演奏しているにもかかわらず、これだけ多種多様な演奏が生まれてくるのではないかと、このように私は思います。

ピアノのレッスンを受けていますと「もっと表情をつけて」と言われることがありますが、これも同様なのではないかと思います。

私が「自分の音が聴けていない!」と指摘された原因は、おそらく、この非言語コミュニケーションに相当する部分に対して、何の意識も払っていなかったからではないか、と私は考えています。

このように考えてみますと、音楽家にとって絶対音感は、あって困るものではないけれども、絶対に必要なものではないという意見の真意が見えてくるように思います。

絶対音感は、Wikipediaによれば「基準となる他の音の助けを借りずに音の高さ(音高)を音名で把握することのできる感覚」とあります。

これは、先ほどの「ありがとう」の例で考えてみますと、たくさんある言葉の中から「ありがとう」という言葉を区別することができる感覚ということになります。

ここからが問題ですが、では、たくさんある言葉の中から「ありがとう」という言葉を区別することができる感覚が身に付けば、それで作家になれるのか、詩人になれるのか、というのが、絶対音感と音楽家という問題の真相なのではないかと、私は考えています。

実際、私は、耳を育てるというキャッチコピーの音楽教室でレッスンを受け、ドレミファソラシドを言い当てる事に関しては大変正確だったにもかかわらず、有名なメロディーの音を間違えて弾いていてもそれに気が付かない、ペダルで複数の和音が重なり合って大変複雑な響きが発生しているにも関わらず(もちろんこのような響きを要求してくる作品もありますが、ここではもっとシンプルな作品の場合です)、全く気にせず弾き進むという生徒を、一人や二人ではなく何人も見てきました。

絶対音感が身に付いているという意味では、確かに「耳が育った」のかもしれませんが、音楽を感じるという意味では、果たして「耳が育った」のかどうか、私は懐疑的にならざるを得ませんでした。

絶対音感そのものは、あって困るものではないのではないかと私は思いますし、身に付けることができるのであれば、それに越したことはないのではないかとも思いますが、しかし、それとその人が音楽家として聴衆を魅了する演奏ができるのかどうかということの間には、あまり関連性がないのではないかと私は考えています。

私は、自分がこれまで色々とやってきて思ったことは、このような絶対音感よりも、ドレミファソラシドやリズムの裏側にある、言わば音楽における非言語コミュニケーションの部分を感じ取る能力があるかどうか、ということの方が音楽家にとっては重要ではないかということです。

プロを目指すにしても、アマチュアとして楽しむにしても、まずは、音楽における非言語コミュニケーションの部分を感じ取る能力を養っていかなければ、例えばピアノの場合、いずれはゲームセンターのもぐらたたきゲームと同じような状態になるのではないかと私は思います。

楽譜に書かれたドレミファソラシドと数値的な意味での音の長さを鍵盤上に正確に移し変えるだけの作業というのは、音楽的才能と言うよりは反射神経に関わる問題で、そのような意味ではもぐらたたきゲームとの間にそれほど差はないのではないかと思います。

このように考えてみますと、「自分の音が聴けていない!」と指摘されていた私は、ピアノでもぐらたたきゲームをやっていただけなのではなかったか、と思えてきます。

いずれにしても、音楽において「音を聴く」というのは、単にドレミファソラシドや数値的な音の長さを判断するということだけではなく、さらに、それらの音の裏側にある、コミュニケーションにおける非言語コミュニケーションの部分に相当するものを感じ取るということなのではないかと思います。