演奏者と同じ視点から

ある演奏に対してアドバイスをするということについて考えてみたいと思います。

ある演奏に対してアドバイスを行うということは、その演奏や演奏者に対してここはもう少しこのように弾いたらどうか、というような提案を行うということですが、その場合に、その演奏者と同じ視点があるのかないのかということは、非常に重要ではないかと思います。

その演奏者と同じ視点に立って、その演奏者がその作品からどのようなことを感じ、それをその作品を通してどのように表現しようとしているのか、ということを理解した上でのアドバイスでなければ、その演奏者にとって欠けているものは何か、何が必要なのかということは見えてこないのではないでしょうか。

過去に、私はレッスンで、ショパンのバラード第3番のある部分に変化をつけて弾いていたところ、「何でそんなところで変化をつけるんだ!」とのお叱りを受けた覚えがあります。

楽曲分析の側から楽譜を見ていけば、ハーモニーが大きく変化している場所なので、変化をつける自由は存在している箇所ではないかと私は思いますし、実際、この部分に変化をつけて演奏している例はたくさんあります。

私は、みんながここで変化をつけて演奏をしているから変化をつけたわけではなく、そこに何かしらの変化を感じたから変化をつけたのですが、「僕はそんなところに変化を感じない!」と一蹴されてしまいました。

その時は、先生のお言いつけを守るしかありませんでしたが、今から考えてみますと、このアドバイスが適切なものだったのかどうか、私は疑問を感じざるを得ません。

なぜなら、実際にそのショパンのバラード第3番を演奏するのは私であって、先生ではないからです。

楽譜から感じ取ったことを音で表現するのが演奏だとするならば、私がそこに変化を感じてしまった以上、これはもうどうしようもないことであって、問題は、それをいかに曲の中の他の部分と調和した形で行うかということではないのかと思います。

ところが、この例では、先生の頭の中にある理想とするバラード第3番に、私の演奏が適合しているのかどうか、ということが問題になっています。

「あなたのショパンはショパンじゃない」というようなタイプのアドバイスも同様で、これも言っている側の頭の中に理想とするショパン像があって、それとその演奏が適合していなかったという、ただそれだけのことしか言っていないのではないかという気がします。

さらに、このようなアドバイスが問題なのは、上記の例を被害妄想的に拡大していくと、「そこに変化を感じるお前の感覚が間違っている」ということになります。

ある部分に変化を感じたり感じなかったりするのは、個人個人によって違いますから、本来、感覚には正しいも間違っているもないのではないかと思います。

例外として、先生の芸をそっくりそのまま受け継ぎたい、という場合には、感覚が間違っているということは言えるかもしれません。

しかし、これはあくまでも例外であって、いかにピアノの先生と言えども、生徒個人の感覚の領域にまで注文をつけることはできないのではないのでしょうか。

また、「○○(ピアニストの名前)のように弾けないの!?」というようなタイプのアドバイスも、私は同類ではないかと考えています。

例えば、私がホロヴィッツのような演奏を目指していて、もっとホロヴィッツのように弾けないの?と言われるのは問題ありませんが、ホロヴィッツとは全くタイプの異なる演奏を目指しているところへ、もっとホロヴィッツのように弾けないの?と言うのは、八百屋に魚がないと言っているのと同じではないか、という気がします。

的を得たアドバイスというものは、その演奏者と同じ視点に立ったところからしか生まれてこないのではないでしょうか。