何が何でもピアノっていうのはちょっと…
続 直観でわかる数学という本の、長いまえがきという部分に次のような文章があります。
長いですが、引用します。
数学は大事だとか,数学はすばらしいとか,数学は楽しいと言うが,それは全部そのとおりである.私もそう思っているのである.だからこそ,こうして数学の本を出しているのである.しかし,私は,自分が大事だと思うもの,すばらしいと思うもの,楽しいと思うものを,人に押しつける気はない.それだけ大事で良いものならば,みんなが本当にその大事さがわかるような努力をすべきではないかと思うのである.
こう言うと,また必ず反論があると思う.けれども,私に言わせれば,数学の先生たちはまだまだ努力が足りないし,むしろ「どうやって人に数学を押しつけようか」と思案しているようにしか見えないのである.(続 直観でわかる数学、畑村洋太郎著、岩波書店)
この文章の「数学」という単語を「ピアノ」に置き換えて読んでみると、そのままピアノにも当てはまるのではないかと、私は思いました。
私がピアノ教師の仕事をするようになって、一番最初にぶつかった問題が「そこまでしてピアノってやらなければならないものなのか?」というものでした。
ピアノ教師を始めた頃、生徒がヤル気になるピアノ指導法とか、退会者を減らすための○△□とか、このような考え方が、私の中ではどうしても腑に落ちませんでした。
「仕事というのは割り切ってやるものだ」とか「あなたがそこまで考える必要は無い、言われたことを黙ってやっていればいいんだ」というようなアドバイスをたくさんもらいましたし、自分でもこのような考え方に馴染もうとできるだけ努力をした結果出てきた疑問が、先の「そこまでしてピアノってやらなければならないものなのか?」というものでした。
ピアノというのは生きていくために絶対必要不可欠であるということを論理的に証明することは不可能です。
ある特定の個人にとって、絶対必要不可欠であるということは可能かもしれませんが、論理的に証明することが不可能ということは、万人に共通する理由がないということになります。
それゆえ、ピアノの必要性、ピアノの重要性を説こうとしても、いずれも説得力に欠けるものとなってしまいます。
さらに、私がこのような考え方に馴染めなかったのは、自分が好きでピアノをやってきてしまったということが大きいのではないかという気がします。
私は小学校6年生の時に初めて受けたコンクールから始まって、音大に合格するまでの間に地元で受けたコンクールは全て予選で落選するという有様でしたが、それでもいまだに執念だけでピアノを続けているといった有様ですので、先生に励ましてもらったからここまでやってこれたとか、そのような経験が全くと言っていいほどありません。
むしろ、音大受験の時など、当時師事していた先生を筆頭にみんなから無理だ無理だと言われ続けたくらいです。
コンクールも同様で、私も今ピアノ教師をやっているので何となくわかりますが、当時師事していた先生は私にコンクールを受けさせたくなかったのではないか、ということも思います。
このような調子でやってきましたので、私にはどうしてもピアノが人から励ましてもらいながら続けなければいけないほどのものだとは思えないのです。
ヤル気を出させるためにコンクールを活用するというのも同様で、私がこんなことを言いますと、自分がコンクールと縁がなかったことによる単なる負け犬の遠吠えになってしまうとは思いますが、それでも、今日の加熱するコンクールの様相を見ていますと、果たして好きなのはピアノなのだろうか、競争なのだろうか、どちらなのだろうか、と考えさせられてしまいます。
競争が好きなのであれば、もっと白黒がはっきりつくような、マラソンとか水泳とか、将棋とか麻雀とか、そのようなものの方が、スッキリしていて面白いのではないか、という気がします。
反対に、白黒がはっきりしない競争だからこそ良いということも言えるかもしれませんが。
世の中に、趣味になるようなものが唯一ピアノだけだ、ということであれば、上記のような考え方にも一理あると思いますが、今の世の中、実に多芸多才、ありとあらゆるものが趣味になるということがわかります。
人生の貴重な時間を好きなのかどうかもよくわからないピアノに漠然と費やすのであれば、複数の習い事を同時に始めてみて、その中で自分にピンと来たものを続けていくことの方が、人生にとってずっと有意義なのではないか、という気がします。