ピアノ入門以前 第2号 ピアノにおける言葉の問題
2009/06/30
今回は、ピアノにおける言葉の問題について、お話をしたいと思います。
例えば、ピアノの発音機構に関して、言葉で説明をしようとすると、次のような説明が可能です。
鍵の鍵盤側が下げられると、ダンパーが持ち上げられ、同時にピアノ
内部に取り付けられた機械装置が作動してハンマーが跳ね上げられる。
この時、ハンマーは弦を打ち、弦から音が発せられる。
この説明の中で、私は「打つ」という言葉を使用しましたが、人によっては、「打つ」という言葉が与える印象に対して抵抗を感じる場合があります。
そこで、この"打つ"という言葉を、私の手元にあります類語例解辞典で調べてみますと、「叩く」「殴る」「ぶつ」という言葉が紹介され、共通の意味は「対象に、道具、手などを強く当てる」とあります。
私には、いずれの言葉も、与える印象に大きな差は無いように感じられますが「ピアノで打つとか叩くなどとはとんでもない!」ということになりますと、「ハンマーが弦に当たって音が発せられる」とか、「ハンマーが弦と瞬間的に接触し音が発せられる」など、「打つ」とか「叩く」という言葉を使わずに表現することは、いくらでも可能となります。
言葉による表現を変えてみたところで、ハンマーが弦を打つという言葉で表されるところの、現実にピアノの内部で起こる事象が変化するわけではありません。
それを見た人が、ハンマーが弦を打っているという言葉で捉えるのか、ハンマーが弦に当たっているという言葉で捉えるのか、という違いでしかありません。
ここで問題となるのは、事象の側が変化するわけではないのですが、先の説明のように、事象の側を具体的な例によって示さず、言葉だけで語られた場合、事象の側をすでに知っていて、それを思い浮かべながら言葉を受け取っている人と、事象の側を知らずに、受け取った言葉のみから事象の側を想像している人との間では、大きな違いが生まれるのではないかということです。
話し手と聞き手の双方が、事象の側について十分な知識を持っているのであれば、例えば、上記のハンマーの動作に関して、ある人が「ハンマーが弦に触れると音が発せられる」と言った場合に、聞き手は「自分は、ハンマーが弦を打つ、という言葉で認識していることを、弦に触れるという言葉で表現しているのだな」ということを理解した上で、話を進めることができます。
しかし、話し手と聞き手のいずれか、もしくは双方が、事象の側についての知識を持たない場合、使用される言葉によって、その印象は大きく変わります。
ハンマーが弦を打つ
ハンマーが弦に触れる
事象の側についての知識がない場合、この2つの言葉が表していることが同一の事象であると考えるのは、難しいのではないでしょうか。
上記は無難な例として取り上げましたが、他にも、指が強い、指を立てる、指を伸ばして弾く、やわらかい音、かたい音、脱力、などなど、言葉が与える印象が受け取る人の主観によって大きく異なり、まるで事象の側までもが全く異なるものであるかのような印象を与えてしまう言葉が、ピアノには多数存在しているように感じます。
これらは、いずれも私達が日常的に使用している言葉から成り立っています。
誠に情けない話ですが、私などは長い間、これらの言葉を見て、直感的にその意味が理解できるかのような錯覚に陥っておりました。
しかし、今では、いずれの言葉も事象の側の知識があってはじめて理解が可能となる言葉であり、日常的に使用している意味から直感的にその意味を理解することは大変に難しい言葉であるということを痛感しております。
このような経験から私が思うには、日常的に使用している言葉であるにも関わらず、これらの言葉は、専門用語なのではないか、ということです。
ピアノを題材に議論をするということではなく、ピアノを弾くという行為を前提に議論をするのであるならば、ある事象をどのような言葉で表現するのか、ということよりも、ある事象について、事象そのものを正確に把握することが重要となるのではないかと思います。
なぜなら、ピアノを弾くという行為は、言葉ではなく、動作であるからです。
私の考えでは、ピアノを弾くという行為を前提に議論を行う場合、まずは、事象の側を詳細に観察し、事象の側に対して言葉を当てはめていくことによってピアノを弾くという行為に対しても有用な結論を得ることができるのではないか、ということを思います。
しかし、始めに言葉ありき、で議論を進めてしまいますと、事象の側を飛び越えて、ピアノでは現実には実行が不可能であるような結論にたどり着いてしまう可能性が生まれてしまうのではないか、ということを思います。
そして、事象の側と結びついた言葉ではなく、始めに言葉ありきというところから生まれてきた言葉が飛び交うことによって、ピアノでできることとできないこととの境界線が曖昧になってしまい、ピアノが実際以上に複雑怪奇なものとして認識されてしまうのではないか、ということを感じます。
今日では、インターネットをはじめとして、ピアノに関する膨大な情報が、いとも簡単に手に入れることができるようになりました。
一方で、上記のような言葉の性質が原因となって、随所で混乱が起こっているようにも見受けられます。
議論の題材としてピアノを取り上げ、議論そのものを楽しむということであれば、始めに言葉ありきで何ら問題はありませんが、ピアノを弾くという行為を前提として議論を行うのであれば、そこで使用される言葉は、すべて事象という裏づけがなければ、実際の行為を行うことはできません。
実践から生まれた理論は実践が可能ですが、理論から生まれた理論は、必ずしも実践が可能とは限りません。
そして、私などは、この区別ができなかったために、理論から生まれた理論に随分と振り回されてきたように思います。
このように考えて見ますと、議論の題材としてのピアノと、行為としてのピアノとは、分けて考えることが必要なのではないか、ということを私は感じます。
※「ピアノ入門以前」は、だいすピアノ教習所講師の かとうだいすけ が2009年6月から2011年5月まで、まぐまぐにて配信したメールマガジンです。2011年5月に廃刊しました。