ツェルニーの是非
私は音大に入学するまでバッハとかツェルニー、あとはベートーヴェンのあまり有名ではないソナタが全く好きではありませんでした。
当時の私の感性がいかに貧しいものだったのかということを物語る、なんとも情けない話ではありますが、事実として、これらのおもしろさというものが全くわかりませんでした。
当時は、他に弾いてみたい曲がたくさんあるのに、なぜ共感ができないこのような曲を練習しなければならないのか、その意味が全く理解できず、何だかよくわからないけれども、音大に進むためにはやらなくてはいけないと先生がおっしゃるので、仕方なくやる、というスタンスでやっていました。
そんな私が、それから10年後にツェルニーの重要性を主張して、ツェルニー反対派のベテランピアノ教師と衝突することになるとは、人生とはわからないものだと思います。
私がツェルニーの重要性に気がついたのは、大学3年の時のピアノ指導法という授業においてでした。
その授業の中で、学生全員にツェルニー30番から1曲ずつが割り振られ、みんなの前で演奏をしてから指導上のポイントを発表するという課題が出たのですが、学籍番号が一番頭だったため、私には1番が割り振られました。
1番ということで、翌週の授業で早速発表をしなければならないため、家に帰り昔やったツェルニー30番の楽譜を取り出してきて1番を弾いてみたところ、これが全く思うように弾けません。
ツェルニー30番の1番には、メトロノームで2分音符イコール100という指示が出ているのですが、これにあわせてやろうとしたところ、全く指がついていきませんでした。
そこで速度を落としてみたのですが、今度は3連符が均等になりませんでした。
とくにひどかったのが345指を使うところで、指がくっついてしまって音がでませんでした。
これによって、私は、これまでのいくつかの文章で書いてきたところのfundamentalができていないということを自覚するに至ったわけですが、それ以上に、ピアノ演奏家コースというところに在籍して3年次にもなってこれはいかがなものか、ということを思い、大変なショックを受けました。
ここから私のfundamental探しが始まったと言っても過言ではありません。
さて、そのツェルニー30番の楽譜を見てみますと1番から30番までの全ての曲に丸がついているのです。
いったい、どのような理由で丸がついたのだろうか、と過去を振り返ってみますと、とりあえず音を一つも間違えずに弾くことができたから、という理由ではなかっただろうか、という気がしました。
ここに至って、私はハノンやツェルニーのようなものはただ間違えず弾くというだけでは何の意味もないということに気がつきました。
ちょっと気がつくのが遅すぎたようにも思わなくもないのですが、それでも気がついただけ良かったと思って自分を納得させています。
これらのことを振り返ってみて思うことは、私がツェルニーに対して興味を持てなかったのは、本が進むことに合わせて自分が上達しているという実感を得ることができていなかったからではないか、ということです。
これは、本が進むということと上達するということが必ずしもイコールではない、ということではないかと思います。
本が進むということと上達するということをイコールにするためには、その前提条件として、fundamentalが身に付いているということが必要なのではないかと思います。
ツェルニーの是非も、本来はこのような視点から考えられる必要があるのではないかと思うのですが、以前反対派のベテランピアノ教師と衝突した時には、私は上記のようなショックからヒステリー状態に陥り、ただただツェルニーは重要だの一点張り、先方はツェルニーは古い、もうヨーロッパでは使われなくなってきているの一点張りで、今から考えて見ますと、議論にもなっていませんでした。
今になって思うことは、何を使うのか、ということではなく、どう使うのか、ということが重要なのではないか、ということです。
fundamentalを身に付け、それを発展させていくという目的で使用されるのが練習曲集であるという位置づけで考えるならば、ツェルニー、クレメンティ、クラーマー、モシュコフスキーなどの膨大に存在する練習曲集のいずれを使っても、何がしかの上達したという実感を得ることは可能なのではないか、というのが私の考えです。
ツェルニー、クレメンティ、クラーマー、モシュコフスキーというのは、いずれも作曲家の名前で、無味乾燥と言われる練習曲においても、それぞれの作曲家の個性というのは少なからず現れているように、私は感じます。
ですから、何らかの目的で練習曲集を利用するということを選択する場合、これらの作曲家の中で一番その音楽に共感できる作曲家の練習曲集を選択して取り上げるのがベストではないか、ということを思いました。
段階的学習の視点から考えますと、上記のような私の考え方は間違っているということになるのではないかと思いますが、形だけの段階的学習には何の意味もないということを私は自分が身を持って体験してしまったため、形だけの段階的学習を行うのであれば、好きな曲を1曲選択して、その曲に現れる技術的要素を分解し、それをもとに反復練習を行う方がよほど人生の貴重な時間を浪費せずに済むのではないか、ということを思います。