ミスはだめなのか?

ピアノと言えば、ミスをしたとかしなかったとか、とにかくミスミスミスミスとやかましいことこの上ありません。

私はミスなく弾けるというタイプではないので「一音でもはずしたら終わり」なんてことになれば、即座にピアノ教室の看板を下ろさなければなりません。

学生時代も、とにかく「はずすな!」とか「はずれる!」とかいう怒鳴り声がレッスン室に響き渡り、「練習が足りない!」から始まって、最後には「練習のやり方が悪い!」と怒鳴られる始末でした。

ここまで来ると、もう何はさておき、いかにミスをしないで弾くかということに全神経が集中し、だんだんとピアノを弾くことそのものが嫌になってきます。

実際、学校を出てピアノ関係の仕事をするようになってからもピアノが嫌になったことが何度かあったのですが、辞めてしまおうとする度に、何かしらピアノの側に引きとめられるような出来事が起こって、ピアノを辞めることをあきらめることになりました。

辞めることができないのであれば、残された道はどのようにピアノと上手に付き合っていくかということを考えるしかないわけで、そうなると、もともと私がピアノを嫌になる原因となったミスについて考えざるを得ないということになります。

あれこれ考えた結果、私の中でのミスに対する結論は「聴き手(ここでの聴き手には弾いている自分も含まれます)の想像力を壊さない範囲内のミスは気にしなくても良い」というものになりました。

ただし、音が一個はずれた瞬間にイメージが壊れるという人から雰囲気さえ良ければミスなんてどうでも良いという人まで、ミスに対する感じ方には大変な幅があるため、この結論そのものが相当曖昧なものですが、それでもミスに対する自分のスタンスを決めておくと、「あそこをはずしたね(ニヤリ)」などとチクチク言われても、「じゃあ、はずさない人の演奏を聴けばいいじゃない」と自信を持って返すことができるようになります。

まず、一口にミスといっても様々なミスが考えられます。

  1. 弾く音がわかっているのに違う音を弾いてしまうという、いわゆるミス・タッチ
  2. 暗譜で弾いていて途中でわからなくなってしまう、間違えるというタイプのミス
  3. 演奏にはミスタッチや途中で間違えるということがなくても、譜読みそのものを間違えているというタイプのミス
  4. 演奏にはミスタッチや間違いも無く、譜読みも完璧だが、解釈上間違っているという、ちょっと高度なタイプのミス

もっと細かく分類することも可能ですが、とりあえず大きく分けると上記の4つになると思います。

この中で、私の結論に明らかに抵触するのは2です。

演奏の途中で間違われてしまっては、想像力も全て吹き飛んでしまいます。

仮に間違えそうになったり、次に何を弾けばよいのかわからなくなったとしても、その場で即興でつないでしまえば、ライブの演奏としては問題ないと思います。

要するに、止まらないということが大切なのです。

演奏が止まってしまうと、想像力も止まってしまいます。

1のミスタッチについても、あまりにも数が多すぎたり、主要なメロディーの途中でミスタッチが発生する場合は、やはり想像力が広がっていくのを邪魔してしまうでしょう。

それに対して、3と4はピアノをやっている側の人間にのみわかるタイプのミスであり、これはステージに上がる前に解決されていなければならないミスですから、コンクールや音大入試などは別として、通常のコンサートでは気にしても仕方の無いタイプのミスではないかと思います。

このように考えていくと、ミスタッチに対して神経質になるよりも、いかにして聴き手の想像力を広げる演奏をするかということに神経を使ったほうが、少なくともピアノが嫌になるという事態は避けることができそうです。

この部分でミスタッチが発生すると聴き手の想像力が壊れるから、この部分は余裕を持って弾けるようにしようという発想であれば、練習も自然と楽しいものになってきます。

ミスタッチをしなければ聴き手の想像力を広げることができるのかというと、そうではないところにピアノのおもしろさと難しさがあります。

ミスタッチをしなければそれでいいということになれば、極論としては人間がピアノを弾く必要は無い、機械にやらせれば良いということになります。

しかし、機械によるショパンやリストがベストセラーになったという話は聞いたことがありません。

機械によるピアノリサイタルが開かれたという話も聞いたことがありません。

人間がミスタッチをしないで弾くからおもしろいんじゃないかという意見もあります。

実際、そのような楽しみ方もあると思いますし、私自身がそういう楽しみ方にどっぷりとはまった時期もありました。

しかし、そのような楽しみ方をするのであれば、何もピアノのようにこちゃこちゃとしたものではなくてバレエとかフィギュアスケートとか、他にもスポーツでの奇跡的なプレーなど、ノーミスの演奏よりもはるかに私たちを興奮させてくれるものが、世の中にはたくさんあります。

ピアノには、ミスのあるなし以外にも、もっと色々な角度から楽しむ方法があるのではないかと私は思うのですが、今日の特にクラシック・ピアノはミスのあるなしに偏り過ぎなのではないかという気がするのです。

プロフェッショナルの、それも相当ハイレベルな世界のルールを、アマチュアの世界に持ち込むことの方に無理があると思います。

私は最近、ミスタッチというのは、あるラーメン屋に入って出てきたラーメンの、例えば麺の太さが1mm違っているから、これはラーメンとして間違っているとか、チャーシューの切り方がとなりの人のよりも2mm薄かったからこれはチャーシューとして間違っているとか、そういう次元の話ではないかという気がします。

つまり、ラーメンの作り方というレシピがあって、そのレシピに書かれてあるとおり、分量から火にかける時間まで、寸分の狂いもなく行わなければ駄目だと、そう言っているのと同じではないかという気がしたのです。

もっと極端な話にすると、どこそこ産の豚肉で作ったチャーシュー以外はチャーシューではないと言っているようにも聞こえます。

主要なメロディーが崩れてしまったり、何を弾いているのかわからないという状態になってしまうのは、調味料を間違えた料理や、盛り付けが食欲をそそらない料理と同じではないかと思いますが、その部分をクリアーできたのであれば、そこから先は、細かいミスのことなど気にせず、自分にしか弾けないショパン、他の誰にも弾くことのできないリストを目指して聴き手の想像力を広げることを考える方が、よっぽど人生にとって有意義なのではないかという気がします。