指が動くようになれば、それで感動的な名演奏が生まれるのか?

私は、自分がピアノが下手なのは指が動かないからであると決め付け、指が動くようになればそれでピアノは上手くなるものであると信じきっていました。

しかし、指が動くというただそれだけでは、ピアノは上手くはならないのではないか、と次第に思うようになりました。

そもそも、なぜ私が自分がピアノが下手な原因を指が動かないことにのみ求めたのか、ということを考えてみますと、それは、ピアノというものは、鍵盤を巧みに操作しさえすればそれで良い演奏は自然と生まれてくるという思い込みがあったからではないか、ということを思います。

例えば、炊飯器でご飯を炊くということを考えてみます。

炊飯器を用意して、コンセントをつなぎ、そして炊飯ボタンを押します。

これで、ご飯が炊けるのかと言えば、これだけでは、どんなに炊飯ボタンを押したところでご飯は炊けません。

なぜなら、米と水が炊飯器の中に入っていないからです。

炊飯器に米と水を入れ、炊飯ボタンを押すことによって、はじめてご飯が炊けます。

炊飯器そのものの中にご飯が存在しているわけではなく、炊飯器はご飯というものを生み出すための道具でしかない、ということがわかります。

私はピアノというのは、この炊飯器と同じではないか、ということを思います。

では、ピアノの場合の米と水はどこにあるのか。

それは、ピアノの中ではなく、演奏をする人間の頭(心)の中なのではないかと思います。

つまり、どんなに指が達者に動いたとしても、演奏をする人間の頭(心)の中に音楽が存在していなければ、ピアノからは何も生まれては来ないのではないか、ということを思います。

ということは、私がピアノが下手だった真の原因は、指が動く動かない以前に、私の中に音楽が存在していなかった、もう少しわかりやすく言うならば、このように弾けたら自分は上手であると思うことができるような演奏に必要な、米と水にあたるような何かが存在していなかった、ということなのではないかという気がしてきます。

このように考えてみますと、これまでにも述べてきたfundamentalの中核を成しているのは、奏法そのものではなく、その奏法を生み出すもととなっているところの音楽なのではないか、ということを思います。

指が動くというのは、このように弾けたら自分は上手であると思うことができるような演奏を実現させるための一手段であり、そのもととなるところの、このように弾けたら自分は上手であると思うことができるような演奏がどのようなものなのか、ということがわからなければ、指の訓練というのは単なる徒労でしかないのかもしれない、ということを思います。

まれに、著名なピアニストが指の練習をする必要は無い、という発言を行うことがありますが、この言葉の真意は、上記のようなところにあるのかもしれない、ということを思いました。