脱力

自然なピアノ奏法はどこから生まれてくるのかという文章の中で、指にとって大変不自然な動作でピアノを弾けば、手首やひじ、腕や肩、体全体に至るまで動作の全てが不自然になるのは明らかであり、脱力とは無縁の状態になるということを述べました。

ここで出てきました、脱力という言葉について考えてみたいと思います。

私は最初、脱力という言葉の意味を読んで字のごとく力を抜くという意味に捉えていました。

そのため、本来力を入れる必要のある指先まで力が抜けてしまい、その力が抜けた分を補うためにかえって手首や腕に力が入ってしまうという状況に陥りました。

指先の力が抜けている上に、指にとって大変不自然な動作でピアノを弾いていたわけですから、本来の脱力から程遠い状態になってしまうのは無理もなかったのではないかと思います。

さらに悪いことには、本人は力を抜いているつもりになっていたということが、余計問題を複雑にしていたように思います。

このような経験を通して思うことは、脱力というのはそれを単体で習得することができるような何かというものではなく、他の要素、例えば自然な指の動かし方、自然な手のフォームといったことと一体になって実現されるものなのではないか、ということです。

脱力というのは、何でもいいから力を抜くということではなく、不必要な力を抜くことである、という話を聞いたことがありますが、このように考えてみますと、脱力への糸口があらわれてくるように思われます。

不必要な力を抜くことである、ということは、脱力した状態というところから見れば、不必要なところに力が入っているということになります。

それでは、なぜ不必要なところに力が入るのでしょうか。

私の場合は、自然なピアノ奏法はどこから生まれてくるのかという文章で述べたとおり、そもそもピアノという道具をよくわかっていなかった、そして、そのよくわかっていない道具を使ってこれもまたよくわかっていない何か難しいことをやろうとしていた、ということではないかと思います。

ピアノという道具をよくわかっていないことによって、また、それを操作する指のことをよくわかっていないことによって、何だかよくわからないものを指が本来そのように動くようにはできていない動きでもって無理やり操作するわけですから、これは当然不必要な力が入ります。

また、よくわかっていないということによって、不必要な緊張も生まれます。

このように、ステージでも何でもない、ただピアノを弾くというだけでも不必要な力が入り、不必要な緊張が生まれるわけですが、そこに今度は、先生の言うとおりに弾かなければとか、ミスタッチをしないように気をつけなければといったことが加わって緊張はさらに高まり、ステージともなれば、そこに人前で演奏するという緊張がプラスされます。

これだけ緊張がプラスされれば、不必要な力も相当なものになるのではないかと思います。

このように考えてみますと、不必要な力が入る原因の大元は、楽器への理解が不足していること、指の動作への理解が不足していること、というような所にあるのではないかという気がしてきます。

これらの大元の部分を曖昧にしたままで脱力という何かを外側から付け加えようとしても、私のように、今度は力を入れることが必要な部分の力が抜けてしまうといったことが起こり、本質的な改善にはつながらないのではないか、という気がします。

ピアノという道具は何をどうするとどうなるのか、という点を明確にし、ピアノという道具から出したいと思う音を出すためには、体のどの部分の力をどのように使うことが最も無駄がないのか、という側面から自分自身の奏法を見直していくことによって、自然と脱力という言葉で表される状態に近づいていくのではないかと思います。

このように考えてみますと、脱力というのは、自然なピアノ奏法が実現されることによって、自ずから導かれてくるものなのではないかと思います。

今から考えますと、当時の私が考えなければいけなかったことは、いかにして脱力をするかということではなく、いかにして自然なピアノ奏法を実現するかということだったのではないか、そのような気がします。