存在、感性、個性
ピアノによる生演奏とピアノプレーヤーによる再生演奏の違いについての私なりの結論を友人に話したところ、「そんなわずかな違いを世界中の人たちの何%がわかるのだろうか?」という返答をもらいました。
確かに、私自身、注意して聴かなければわからない、それも言葉で説明し他者とその現象を共有するには難しいレベルの違いでしたから、そのように言われて、「確かにそうだよねえ。」と答えるしかありませんでした。
しかし、そこからさらに考えを発展させてみると、ここには別の問題が含まれていることが、何となくですが私の中でクローズアップされてきました。
それは、存在、それから感性、個性という問題です。
例えば、9.0129384910398581930498301290329038947894389490320130449202890...mm/sと9.01294mm/sとでは、人間がその違いを認識するのは大変困難であると言う事ができると思います。
しかし、この2つの数字には確実にわずかな差が存在するのであって、この存在を人間がはっきりと認識できないからといって無いものとして良いのかどうかという問題があります。
例えば、私たちが目に見えず、手で触れることができなくても、確実に存在しているものの代表例が空気です。
空気が人間の目に見えないからと言って、空気を無いものとした場合、様々な問題が発生します。
大気汚染などは、その最たる例ではないでしょうか。
このように、目に見えず、手で触れることができなくても、厳然と存在し、かつ人間に影響を与えているものは、たくさんあるのではないかと、私は思います。
音楽は、まさにそのような存在なのではないでしょうか。
ここから先を論じるのは哲学の領域であり、一まちのピアノ教師である私が何を語ったところで中途半端に終わるのが関の山ですので、ここでは人間がはっきり認識できなくてもピアノによる生演奏とピアノプレーヤーによる再生演奏の音との間には、差が存在するということのみを取り上げるにとどめておきます。
話が変わりますが、「音楽は感性を豊かにする」ということがしばしば言われます。
特に、クラシック音楽に関して、そのように言われる傾向があるように、私は思います。
ここからは私の経験談ですが、感性が豊かになるというのは、どうも顕微鏡の倍率が上がっていくような感じなのではないかという気がしています。
豊かになると言われると、何かが増えていくような印象がありますし、実際に増えてはいくのですが、それは1が2になるというような感じの増え方ではなく、1が2分の1に、2分の1が4分の1に、4分の1が8分の1に・・・というように、細分化されていくように感じます。
実際、違いがわかるというのは、テレビで放送されている偽ブランド品の見分け方や、骨董品の鑑定の様子などを見ていると、一見同じように見える2つ以上のものを、細部のわずかな違いを捉えて区別するということではないかという気がします。
このように考えてみると、感性を豊かにする上で重要なのは、はっきり認識できないからといって無いものとするのではなく、わずかな差が確実に存在することを理解して、その違いを例え言語で説明することができなくても、自分の中で感じ取ることが出来るようになるということなのではないかという気がしてきます。
感性の鋭い人とか勘の鋭い人というのは、このようなわずかな差を感覚的、直感的に捉えることのできる人なのではないか、と思いました。
さらに、このようなわずかな差の集合が個性を作り上げるのではないかと、私の妄想は一気に広がります。
2人の人が同じピアノで同じようにドレミファソを弾くと、ドレミファソに変わりはないのですが違って聴こえるということがしばしば起こります。
これは、2人の人の鍵盤を下げるスピードのごくわずかな差が5つの音が連続することによって積み重なって、2つのドレミファソを生み出しているのではないか、という気がしてきました。
一つの曲には、長さにもよりますが数十から数万、それ以上に音符が現れます。
一つ一つの音符の差は、小数点7桁8桁以下の差であったとしても、それが数十から数万にも積み重なると、大きな差を生むのではないかという気がします。
このように、生演奏とピアノプレーヤーのごくわずかな差も、感性や個性といった側面から見ると、演奏を芸術として捉えた場合の根幹にかかわる大きな問題を提議しているように思われます。
ここから先は学者の方に考えていただくとして、現時点での私の結論としては、デジタルの利便性とそれによって失われているもの、アナログの短所とその短所から生まれる長所を理解して、それぞれを活用していくのが一番ではないかと思います。